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martes, 26 de diciembre de 2017

使徒聖ヨハネ福音史家

 祝日 12月27日

使徒聖ヨハネ福音史家


 第四の聖福音を著した使徒聖ヨハネは、鷲をその象徴とされている。これは何故かというと他の三福音史家マタイ、マルコ及びルカ等は、いずれも主イエズス・キリストの救世の御事業に就き記しただけなのに、独りヨハネは救い主の神性を示すという更に高い目的を以て筆を執った。それがあらゆる鳥よりも高く飛翔する鷲を忍ばせるからである。なお使徒聖ヨハネはその人格に於いても他の使徒達に卓越して特別主の御寵愛を蒙っていたことは、その聖書中に「イエズスの愛し給える一人の弟子(ヨハネを示す)御懐あたりに寄りかかりいたり」とあるによっても想像できよう。
 このヨハネは以前洗礼者ヨハネの熱心な弟子で、他のユダヤ人と同様預言された救世主の来たり給う日を、千秋の思いで待ち侘びていた。所がある日師のヨハネが、イエズスの御姿をお見かけして「見よ、神の子羊を、見よ、世の罪を除き給う者を」と指し示し、その約束された救い主であることを教えてくれたから、ヨハネは早速ペトロの兄弟アンドレアと共に主の最初の御弟子となったが、彼はそれをどれほど喜ばしく思ったのであろう、始めて主の御宿を訪れた時刻さえ忘れず「時は4時頃なりき」と書き残している。
 ヨハネは使徒達の中でもペトロや大ヤコボと共に主イエズスから殊遇をかたじけのうした一人であった。それはヤイロの娘の蘇生にも、タボル山における主の御変容にも、立ち会う恵みを戴いたのはこの3人の外になかった事によっても明らかである。勿論ヨハネはこの御愛顧に対し深い感謝の念を抱き、誠心尽くして主をお愛し申し上げていた。さればこそ主がサマリアのある町で冷遇され給うた時兄ヤコボと憤慨の余り「主よ、天から火を下して無礼な彼奴等を焼き殺しましょうか」というような激越な言葉も口にしたのである。主はその時叱って「汝等は精神の持ち方が誤っている。人の子が来たのは魂を滅ぼす為ではなく、これを救う為である」と教え給うたが、それでも彼等の御自分に対する愛は嬉しく思われたに相違ない。なおこの話の外に、主がヨハネとヤコボをボアゲルネス即ち雷の子とあだ名し給うた事などを思い合わせてもヨハネが普通想像されているような女に見まがうばかり優しい青年ではなく却って気象の激しい、豪快な青年であったことがわかるであろう。そういう性質であったからこそ主に「汝等は私の飲まんとする苦痛の盃を飲み干すことが出来るか?とのお尋ねを受けて、彼等兄弟は「出来ます!」とお答えしたのであった。
 しかしいよいよ主の御受難が始まると、そのヤコボも失望落胆して逃げ、使徒のかしらペトロも大恩ある主を3度まで「知らぬ」と言い張り、その他の使徒達もコソコソ何処かへ姿を隠すという不甲斐なさであったが、その中にあって独りヨハネだけは雄々しくも踏みとどまり、聖母のお伴をして主をカルワリオの丘までお見送り申し上げたのである。
 そして彼がそこに目撃したものは何であったろう?それは嘗てタボル山上で仰ぎ見た御栄光の主とは似ても似つかぬ、悲惨を極めたイエズス御苦悩の有り様であった。しかもそれを露憐れむ気色もなく嘲り罵る悪党輩の声。激し易いヨハネの胸はさながら張り裂けるばかりであった。しかし彼は主の御苦しみが救世に必要である事をわきまえ。自分もその心の苦痛をじっと耐え忍び共に犠牲を献げた。
 その忠実さを主がよみし給わぬ筈はない。主はその報酬として彼に聖い御母の将来を託された。ヨハネはこの重任をどれ程名誉にも思い心嬉しくも思ったであろう。その日から彼は聖マリアをわが許にお引き取りしてまめまめしくお仕えしたのである。彼の著した聖福音が他の記者のそれとは大いに趣を異にし、イエズスの神性に対する深い認識に珠玉の如く輝いているのは聖霊の御導きもさることながら、彼が日常聖母の側近に奉仕して種々御教示を賜わったお陰ではなかろうか。
 言い伝えによれば聖マリアは思いで多いカルワリオを見捨てるに忍びず、余生をエルサレムで過ごされたそうであるが、ヨハネはその御臨終まで懇ろに御介抱申し上げ、主の御遺言を果たした後、西暦44年ヘロデ・アグリッパの迫害に使徒達が各国へ別れ赴いた時、エフェゾに行き、そこから小アジアの緒教会、殊に黙示録にも記してあるエフェゾ、スミルナ、ベルガモ、チアチラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオヂケアの7教会を指導した。
 95年第二のネロと呼ばれる暴君ドミニチアノの迫害が始まるや。老使徒ヨハネもその槍玉に上げられパトモス島へ流されたが、彼はそこで天主から直接啓示を受けて筆を執り、あの有名な黙示録を著し、聖会将来の勝利を預言して、苦しみつつある信者に深い慰めと新たなる勇気とを与えた。

 96年ドミチアノが暗殺され、次いで帝位に昇ったネルワは、追放されたキリスト信者達をことごとく召還したから、ヨハネも再び懐かしいエフェゾの地を踏むことが出来た。その頃彼はもう非常な高齢であったが、それでも生き残った唯一の使徒としてなお及ぶ限り信徒を教え導く事に努めた。老衰の為説教らしい説教が出来なくなってからも、彼は弟子達に聖堂へ連れて行って貰い、「わが子よ互いに愛し合いなさい」と信者達に説いて已まなかった。あまりいつも同じ言葉を繰り返すので信者が不満げな面持ちをすると、ヨハネが言うには「愛徳はキリスト教の基礎で、人は愛徳さえ十分守っていれば決して罪に陥ることがないからである」と。まことに之は愛の使徒と呼ばれる彼に相応しい言葉ではないか。
 彼がその貴重な聖福音書を著したのは1世紀の終わり頃で、グノーシスの異端その他イエズスの神性に就き種々の説が起こった時代であった。故に彼の著書の目的が既述の如くその蒙を啓き、正しきを教えるため、即ち救い主の天主である事を明らかにする為であったことは当然であったのである。かくて天主から託された使命をことごとく果たした使徒聖ヨハネはトラヤノ皇帝の御代ほとんど百歳の高齢でこの逐謫の浮き世を去り寵愛深い主の待ち給う天国に赴いたのであった。

教訓
 使徒聖ヨハネの偉大な生涯の事蹟数々の実徳をつぶさに考えて見れば、ことごとく愛の一字につきる。故に我等も彼に倣おうと思えば、その訓言の如く、一にも愛、二にも愛、三にも愛を心がけることが大切である。

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